俺の残りの命を、お前にやるよ。大事に使うんだぞ

「俺の残りの命を、お前にやるよ。大事に使うんだぞ。一緒に100まで生きような……」

これは、私の母方の祖母が、若くして戦死したお兄さんに掛けられた最後の言葉です。祖母は今でも、「あの時」を思い出し涙を流します。

私の生まれ育った町には、悲しい歴史がたくさん刻まれています。

小学生の頃でした。
海へ、海水浴や釣りに行くと、いつも同じ場所で、若い兵隊さん(霊)が泣いている姿を目にしました。私は、勇気を出して「何で、泣いてるの?」と、話掛けた事があります。

その兵隊さんは、「ユウスケ」という名前だと教えてくれました。ユウスケさんは、この土地に残された思いや、両親・兄弟への思いを語ってくれました。そして、「自分は『回天』という武器に乗り込んで、この土地を、家族を守ったんだ……」と、話してくれました。

「でも何で、ここにいるの?」と聞くと……
「自分と、同じように攻撃に向かった同胞の帰りを待っている…。ここで会おうと約束したんだ」と、話してくれました。

その他にも、師匠とカウンセリングをしていた時に、何人もの兵隊さん(霊)が様々な容で現れました。「神風特攻隊」にて亡くなった兵隊さん、そして「回天」にて亡くなった兵隊さん……殆んどの方が「少年」でした。

様々な思いを告げに来られるのですが、中でも多かったのが「慰霊碑」を建てて欲しいとの願い……そして、自分達が亡くなった理由・事実が正しく伝わっていない現状への不満でした。

師匠は、町長さんや助役さんに「歴史を調査し『慰霊碑』を建てるべきです」と何度も何度もお願いしていました。その思いは、残念ながら師匠が現世にいるうちには叶いませんでしたが、その意思を私や父、たくさんの応援者が引き継いでお願いし続けた結果、やっと、小さいながらも立派な「慰霊碑」が建てられました。

この町から特攻隊として若い尊い命が母国を家族を「愛する人達」を守る為に散っていったことを、多くの方に知って頂けました。「神風特攻隊」は多く知られていますが、「回天」という名の特別特攻攻撃を知っている人は少ないでしょう。

「回天」とは、天運挽回”傾いた形勢を元に戻す……から生まれた名。日本独特の「九三式酸素魚雷」に手を加え、人が乗って操縦し、敵艦に体当たりしようというものです。・・・・・・「人間魚雷」。

帰郷中の私は、午前中お墓参りをしその帰りに菊とユリの花を持って、海の見える慰霊碑を訪れました。そしてそこで、今まで体験したことの無いほどの経験をしたのです。

私は、慰霊碑の前に立って、花を置きました。祝詞を挙げて「回天にて、この土地を・先祖を・私達を命懸けで守って下さった特攻隊員の方々に、感謝し、皆様に恥じない生き方をしていきたいと思っております。皆様の魂が、浄化・向上されますことを心よりお祈り申し上げます。」と、合掌しました。

その直後、海側から突風がふき、金縛り状態に……。そして、たくさんの魂が私の周りに集まって、風に乗って空へ登っていきました。その時、私は5人の特攻隊員の方の笑顔と声を聞きました。

「どうせ駄目なら特攻などせずに、降伏するまで待てば良かったのに……」と言う人がいます。しかし、戦士とは最善を尽くして戦うべきものです。

「我々は、最善を尽くして敵と戦うための軍人でした。しかも、「回天」という武器がある以上、それを駆使して戦うのが務めです。それ以上は考えてはいません。戦争の終結は政治の問題でした。」

「我々は、戦争指揮者から、悲惨な命令を押し付けられて、嫌々死んでいったのではありません。(俺たちの事を悲しんでくれよ!)なんて思っていない。目の前に危殆に瀕した家族や両親の生があるのです。私達に選択の余裕など無かった。敵の無差別爆撃が日本各地に行われ、自分達の同胞が無抵抗で大量に惨殺されていって、次は、自分の親だと言われれば、全力で敵に立ち向かおうとはしませんか?」

「平和な今の時代でも、危険にある人を見た瞬間、助けたいととっさに人は思います。他より侵するものがあれば、守るのは「自然の命ずる行為」でしょう。」など、たくさんのメッセージと当時の映像を見せて頂きました。

そして、何とも温かく逞しいエネルギーを与えられ、涙が溢れてきました。同時に見せられた映像の中には、それぞれの家族との別れの映像、彼らが一番愛したもの、思い出、願い……がありました。

○昭和20年2月・・・硫黄島に米軍上陸。

○昭和20年3月・・・B29、325機による東京大空襲。

○昭和20年4月1日・・・沖縄に米軍上陸。そして・・・、●昭和20年11月1日

●米軍統合参謀本部は、日本本土への侵攻として、西から島伝いを決定し、九州南部に上陸するという「オリンピック作戦」を米国大統領が承諾していました。

彼らは、衝動的感情ではなく、命令に従い嫌々ではなく、これによって家族や故郷が救えるのだという、考えた末の納得と、自分の命を最も効果的に活用するための長い訓練の後の決行だったのです。

この大戦で7000人以上に及ぶ若い人達が、特攻隊員となって散花しました。しかし、今では「特攻」に参加した彼らに共感どころか理解も出来ない日本人が多くなっています。

「特攻」は、「自殺」ではありません。そして、事実を歪曲し正しく伝えないマスコミがあります。戦後のマスコミや文化人の彼らに対する評価は、あまりにも低いところにありすぎました。

祖母は言います。
「私は、兄さんに命を分けて貰った。兄さんの死は、決して意味の無いものでは無かった。それを証拠に、この土地の人間は、四季豊かな国を愛し、山河を愛して、ここまで平和に生きてこれた。」と……。

……私達は、彼らに恥ずかしくない生き方をしているのでしょうか……。

5月12日(2007年)に「俺は、君のためにこそ死にに行く」という映画が放映されます。私の知っている土地が舞台となって撮影された映画です。

さて、そこにはちゃんと真実があるのか?

……期待しています。

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